昨年7月、記録的な豪雨が九州を襲い、災害関連死を含めて79人が死亡し、2人が行方不明になった。熊本県を流れる球磨(くま)川の氾濫(はんらん)で父親を亡くした男性は、助けられなかったと自らを責める。叔母が行方不明になった夫婦は再会へのかすかな望みをつなぐ。あれから4日で1年。大切な人を思う気持ちは時が経っても、変わることはない。
更地に黒ずんだ木材が置かれていた。ここにあった店の名残だ。少し歩いた先に球磨川が流れる。
「職人町だった江戸時代からの建物が残っていたので、解体するかどうか迷ったとです」。永尾禎規(ていき)さん(57)は言った。そばに大人が数人入るほどの樽(たる)や瓶(かめ)、漬物石も見える。家業の歴史を刻んだ品々が野ざらしになっていた。
商店が立ち並ぶ熊本県人吉市紺屋町。この地で87年前、祖父の代に創業した漬物製造販売会社の3代目だ。2代目の父は、球磨焼酎を隠し味に使うなど独自の製法で大根を漬け込んだ看板商品を育てた。その背中を追い、懸命に働いてきた。
記録的豪雨に見舞われた昨年7月4日午前7時ごろ。激しい雨音は防災無線の音をさえぎるほどだった。自宅兼店舗の前に出てみると、60~70メートル先の老舗うなぎ店辺りまで川からあふれた水が迫っていた。
同居する両親に「早く逃げよう」と告げ、雨がっぱを着ているうちに土間に水が入ってきた。「危ない」。母のムツ子さん(90)は身支度を始めたが、認知症があった父の誠さん(当時88)は動かなかった。
ひざまで濁流につかりながら、母をおぶって物干し場のある屋上へ避難させた。戻って父の体を引っ張った。「はよ逃げんば」。せかしたが動かず、父は「もうよか。もうよか」と言った。トタン塀を鎌で切り裂いて近所に助けを呼びに行った間に、濁流がどっと家の中へ入ってきた。水は胸の高さまで迫り、父に近づけなくなった。
水が引き始めたのは午後。うつぶせに倒れた父が見つかったのは、夕方になってからだった。
「助けきらんかった」
火葬は4日後。被災後の混乱で通夜も四十九日もできず、葬式をあげたのは2カ月後の9月4日だった。
9人きょうだいの長男だった父は人一倍、責任感が強かった。経験と勘を駆使し、季節ごとに違う漬物の仕込みに集中する時は、話しかけると「黙っとれ」と怒鳴られた。一人息子の禎規さんは高校卒業後は自衛隊に入り、一時人吉を離れた。家業を継ぐつもりで20代で戻ってきても、父は素っ気なかった。「うちのが帰ってきたとです」。取引先にはうれしそうに話していたと、後で知った。
人吉市では1965(昭和40)年にも大水害が起きた。当時の話を親族に聞かされたことがある。消防団員だった父は、水が迫るなか、1歳8カ月だった禎規さんを担いで救い出した。
自分は、その父を救えなかった。自責と無念の思いはいまも変わらない。最後の日の父の顔はよく思い出せない。でも最近はなぜかこう思うようになった。「あの時、父は家を守ろうとしたのではないか」
自宅兼店舗は濁流にのまれたが、父が79年に隣の相良村に移転させた工場は被害を免れた。従業員も無事だった。「父から継いだ家業をつぶしちゃいかん。何とか続けんといかん」。その一心で働き続けた。母親と人吉市内の仮設住宅に身を寄せている。「今日も一日よろしくお願いします」。毎朝、タンスの上の小さな仏壇の遺影に手を合わせ、工場へ向かう。
豪雨災害にコロナ禍も重なり、売り上げは大きく減った。資金不足と「また水が来たら」との不安がある。店舗再建の決意はできないが、それでも得意先の旅館やホテル、土産物店とともに立ち上がろうとしている。「悔いてばかりでは先に進めない。経験をプラスに変えなければ」。父が守った製法と味を、自分が守っていく。(奥正光)
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梅雨の雨が降る6月、熊本県芦北町のはずれにある平屋の家を城文博さん(74)=芦北町=と妻の裕子さん(72)が訪れた。内装ははがれ、床板はない。玄関先に花を飾り、しばらく過ごした。「せめて服の布一枚でも見つかったら」
昨年7月の豪雨で、この家に住む文博さんの叔母の幸恵(さちえ)さん(90)が行方不明となった。球磨川と急斜面に挟まれている家は、濁流にのまれた。
10年ほど前まで、この家では幸恵さんと、文博さん夫婦、その両親らが暮らしていた。独身だった幸恵さんは文博さんの2人の息子をかわいがった。仕事の間は幸恵さんが面倒をみてくれた。「自分たちの母親のような存在だった」と文博さん。
息子たちが高校にあがるとき…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル